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鈴 木 闊 郎


 記憶に残る最初の色は、橙である。
 その色が、橙という色であることを知ったのは、むろん後になってからだ。
 模糊とした記憶のなかで、丸い、ほのかな橙色の物体が、無数に自分の視線よりやや低いところを、漂い、流れている。周囲は暗闇である。そして、それを見ている自分の胸から足までが、暖かいのである。
 記憶というものは、後になってからの想像や、擬似体験などで脚色されやすいものではあるが、それらをすべて篩にかけてみても、この視覚と触覚が、わたしの思いだすことのできる最初の記憶なのである。
 いつ、どこで、どのようなおりの記憶なのであろうか。
 このことは、時にふれ気になることのひとつであった。
 人間の最初の記憶は、およそ三歳のそれまでさかのぼれるのが一般的だという説がある。それに倣うなら、わたしは昭和12年(1937)7月生まれであるから、それは昭和15年(1940)にあった出来事と関連があるかもしれぬ。あるいは昭和14年か、または昭和16年の出来事かもしれない。平成元年(1989)3月に毎日新聞社が発行した「昭和史全記録」の昭和15年の記録をあたってみた。
前年9月には、欧州で第二次世界大戦が勃発している。翌年12月、日本は大東亜戦争に突入した。国情は非常に不安定な時期にあった。
記録のなかに、「紀元二千六百年式典」が挙行され、同年11月5日から15日まで全国的に山車、提灯行列、旗行列などのお祭り気分で沸いた、とある。
 わたしの最初の記憶に残る、丸い、ほのかな橙色の、流れ漂う物体とは、行進していく提灯ではなかったろうか。そして、胸と足に残る暖かさは、それを見物している母の背に負われていたためではなかったか。母の実家は、西の踏切り(現在地下道)を北に渡り、現在の「昭和記念公園通り」を左折してすぐ左側の商家である。いってみれば北口駅前通りである。母が幼いわたしを連れて実家近くで行われている提灯行列を見物したとしても何の不思議はない。
 この年、東京府北多摩郡立川町は、この記念にあやかって12月1日に市制を布くことを決定していた。立川駅北口周辺で、二重の慶びを盛大に祝った祭りがあり、提灯行列も行われた。それに参加したという先輩の話も聞いた。昭和15年の秋であった 。
わたしの、この世に生を受けて初めての記憶は、このおりのものであったと、いまでは確信に近いものになっている。 

 

(筆者・当社会長) 
 


 

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